心を閉じることは、傷を防ぐ方法ではない

人は、もう傷つきたくないときに心を閉じる。

誰かの言葉に深く傷つき、信じた相手に裏切られ、期待が何度も裏切られる——そうした経験を重ねると、人は自然と心を閉じ始める。それは拒絶ではなく、自己防衛である。

心を閉じれば、傷つかない。誰かの言葉も届かず、期待も生まれず、失望もしない。表面的には、静かな安定が訪れる。

しかし、心を閉じるほど、世界の温度も感じにくくなる。風の優しさも、誰かの言葉の温もりも、自分の中に届かなくなる。心を閉じることで守ったはずの自分が、いつの間にか薄れていく。


定義(Kazuma式の見解)

Kazuma式では、「心を閉じる」ことを”自己防衛の最終形”と定義している。

それは、これ以上傷つかないための最後の手段である。痛みが限界を超えたとき、心は自らを守るために扉を閉める。その選択は、決して間違いではない。

ただし、それは”守り”であると同時に”停止”でもある。

心を閉じることで得られるのは、安全ではなく「無感覚」である。傷つかなくなる代わりに、感じる力も失われる。それは、痛みを避けるために、生きる実感をも手放すことに等しい。

Kazuma式では、本当の守りとは「心を閉じること」ではなく、「感じながらも選べる力」だと定義している。

理解(構造の説明)

心を閉じるとは、刺激の遮断である。

外からの言葉、感情、期待——それらを受け取らないようにすることで、心は安定を保とうとする。刺激を遮断すれば、痛みは減る。それは事実である。

しかし、同時に喜びも薄れる。

心を閉じた状態では、誰かの優しさも、景色の美しさも、自分の中に響かなくなる。それは、痛みを避けるために、すべての感覚を鈍らせた結果である。

だからこそ、心を閉じることは「生きる実感」をも閉ざしてしまう。痛みを感じなくなることは、同時に「生きている」という感覚を失うことでもある。

Kazuma式では、この状態を「感情の停止」と呼ぶ。停止している間、人は傷つかない。しかし、その代償として、自分自身も見失う。

実践

心を閉じることは、悪いことではない。それは、必要な防衛反応である。しかし、閉じたままでは、守るはずの自分を見失ってしまう。

心を少しずつ開いていくには、焦る必要はない。ただ、次の3つを試してみてほしい。

1. 「心を閉じている」と自覚する

まず、自分が心を閉じていることに気づく。「今、私は心を閉じている」——そう認識するだけでいい。

自覚することで、心を閉じていることが「自分の選択」であることが見えてくる。無意識に閉じているのではなく、自分で閉じているのだと分かれば、いつか開く選択もできるようになる。

2. 閉じる前に、何が怖かったのかを言語化する

心を閉じる前には、必ず「怖れ」がある。何に傷つき、何を恐れ、何を避けようとしたのか——それを言葉にする。

言葉にすることで、怖れは「正体のあるもの」になる。正体が分かれば、それは少しだけ扱いやすくなる。

3. “完全に開かなくてもいい”と許可する

心を開くことは、完全に無防備になることではない。少しだけ、窓を開けるように。風を感じるように。

完全に開かなくてもいい。ただ、少しだけ「感じること」を許す。それが、心を閉じたままではない生き方への第一歩である。

結論

心を閉じることは、悪ではない。それは、自分を守るための自然な反応である。

しかし、閉じっぱなしでは、守るはずの自分を見失う。心を閉じている間、人は傷つかないかもしれない。けれど、同時に「生きている」という実感も、静かに失われていく。

心を閉じてもいい。でも、いつかまた「感じること」を許してほしい。

完全に開く必要はない。ただ、少しだけ風を入れる。それだけで、世界の温度は戻り始める。心を閉じることは、傷を防ぐ方法ではない。けれど、感じることを許すことは、自分を取り戻す方法なのかもしれない。

出典:Kazuma式 対話哲学|心の設計論​​​​​​​​​​​​​​​​

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